PLANET DESIRE
Clue Ⅲ 淀まない命

Part Ⅱ


 幸い、ユーリスの怪我は大したことはなかった。それでも、回復するためには相応の時間を要した。だが、彼は諦めず、地道に訓練を重ねた。しかし、怪物の方は、あの日以来ユーリスを一人で洞窟に残して置くのが心配になったらしく、自分が出掛ける時には必ず彼も一緒に連れて行くようになった。怪物は無造作に彼を抱え、砂漠や岩山を走り回った。が、その頃には彼も痛みをあまり感じなくなっていたので行動がかなり楽になった。

 そして、洞窟の外に出ることは、ユーリスにとっても利点があった。新鮮な空気に触れられたことや、機能回復の訓練に役立ったこと。しかも怪物と行動を共にすることでその習性や行動を詳しく観察する機会を得た。そして、何よりもここが、あのローザンシティーであるという確信が持てたのだ。

 「いい……水……」
怪物が言った。抱えられたままの体勢でユーリスが振り向くと、眼前に湖が見えた。向こうの岩から清水が湧き出して大きな溜りになっている。
「すごい……! 枯れた砂漠の中にこんな豊な……」
感心していると、怪物はいきなり男を高く掲げた。
「シーザー! 何を……!」
「水……」
怪物はいきなりユーリスを湖の中に放り込んだ。派手なしぶきを上げて、彼は水の底に沈んだ。音と波紋が幾重にも水面に広がっていく……。が、やがて、それも収まり静かになった。しかし、どういう訳か彼は沈んだきり浮いて来なかった。紫の服の裾のレースが僅かに水面に見え隠れしている。

「ユ…リ……?」
怪物がバシャバシャと水の中に入り、近づいていく。と、いきなりしぶきを上げて男が水の中から半身を起こした。その頭からも身体からも細い滝のように水が流れ落ちている。
「あはは。本当だ。すごく気持ちいい!」
男は笑った。そして、両手で掬った水を怪物の身体にも掛けてやった。怪物に付いていた砂埃が落ち、その青銅色がかった固い皮膚の光沢がより一層猛々しさと威厳を感じさせた。怪物も男に水を掛けた。
「うわっ! やめろ! シーザー! おまえの方が手がでかいのだからな。少しは加減してくれ」
ただの水でさえ怪物が本気で掛けたなら、攻撃として通用するのではないかと思える勢いだ。

「いい……水」
怪物が言った。
「ああ……。本当に水浴びなんて久し振りだ……」
ユーリスは纏わりつく服を脱ぎ捨てると岸辺に生えた木の枝に掛けた。彼らは奥まで泳いで水が噴き出す岩山の近くまで行った。そこは十分な深さがあり、湖底は水草に覆われていた。
「それにしても砂漠にこのような場所があるとはな」
男が感心していると、怪物が眼前に指を突き出して言った。
「あれ……」
しかし、彼らの前には岩があり、視界を塞いでいた。

「ユリ……見る……」
再び怪物が指を突き出した。
「この岩の向こうか?」
男は伸び上がって見ようとした。が、まるで背が届かない。
「向こうに何があるというのだ?」
怪物は片腕で男を抱え、上に持ち上げた。それから、強引に肩の上に押し上げる。
「おいおい、何をそんなに見せたいんだ?」
訝しながらも男は怪物の上に立った。
「何と……これは……」
それを見て男は感嘆した。

水は岩の反対側からも噴き出していた。そして、その流れが砂漠を縦断するように蛇行し、長く続いていたのだ。
「ああ……。まるで砂漠を走る龍のようだな」
「あ…あ……」
男の言葉にシーザーも頷く。
 ユーリスはぐるりと周りを見渡した。焼けた砂の向こうに淡い蜃気楼が揺らめいている。それは、太陽の巨大なフレアのように無人の砂漠を接見した。崩壊した建物や焼け跡がくっきりと都市の輪郭を刻み、かつてそこにあった繁栄を示している。そして、更に点々と存在する緑が悲しみの染み跡のように茶色い砂漠の肌にへばり付いていた。

「……さてと、腹が減ったな。今日は何を収穫しようか?」
ユーリスは怪物の肩から腕を伝い、水の中に下りた。
「魚……」
怪物が言った。
「ほう。魚がいるのか?」
「あ…あ……」
二人は沈黙し、じっと水面を見つめた。だが、水は濁っていた。上からではその動きを察知出来ない。
「よし。わたしが潜って位置を確かめる。見つけたらそっちへ追い込むからおまえはその爪で獲物を仕留めろ。いいな?」

男はそう言うと水中に潜り、怪物は中腰で構えた。数秒もしないうちにユーリスが水面に顔を出した。
「いたぞ! 大物だ。そっちに行ったぞ! 捕まえろ!」
男もそれを追う。別の魚がしぶきを上げて空中に跳んだ。それに向かって怪物が飛び掛る。が、掴み掛かったその腕を抜けて魚は水中に飛び込んだ。魚は群れをなし、彼らの足元をかすめていった。
「……グァルッ……!」
怪物が勢いよく腕を凪いだ。しかし、僅かに爪の先端が尾鰭に触れただけで逃げられた。怪物は水の中に何度も爪を突き立てて吼えた。
「シーザー、こっちだ。たくさんいるぞ」
ユーリスが呼んだ。だが、怪物はたった今逃げられた魚を追って水の中を走り回っている。
「やれやれ。それじゃあ、いつまでも捕まらないぞ」

 ユーリスはふと岸から伸びている枯れ枝を見つけた。手頃な大きさで先端が尖っている。銛にするには丁度いい。男はそれを掴むと水面を叩いた。魚は驚いて怪物の方へと向きを変えた。ユーリスは自分でもその枝で目の前を泳いでいた魚の背を突いた。が、一見丈夫そうに見えた枝は鱗に当たると呆気なく折れてしまった。
 ユーリスは枝に掛けた服を取ると、今度はそれを使って魚を捕獲する作戦に出た。服を投網のように水面に投げ、上から押さえ込もうというのだ。はじめは上手くいかなかったが、何度目かの時、広がったスカートの裾に一匹の魚が入り込んだ。ユーリスはすかさず両端を捻って袋状にして閉じ込めた。抵抗する魚を必死に抱え、男はふと怪物の方を見た。
 シーザーは丁度、大きな魚の脇腹にその爪を突き刺したところだった。ところが、思ってもみない魚の強い抵抗に遭い、苦戦していた。逃げようともがく魚。それを押さえつけようとするシーザー。双方が立てる水しぶきで彼らの姿が見えない程だ。

「どうした? シーザー。魚ごときに手を焼いておるのか?」
ユーリスがはやし立てる。
「魚……食う!」
シーザーが怒鳴る。
「魚! 食う! 魚……!」
シーザーが興奮して叫んだ。
「食う!」
そして、遂に魚が大人しくなった。怪物はそれを陸に放ると、自分はまた次の獲物に向かって飛び掛って行く……。
それは大きな獲物だった。しかし、今度はするりとその手を抜けられた。と、自分の獲物を服で縛り、岸に上げたユーリスが応援に向かった。反対側から追い詰め、道を塞ごうというのだ。

「シーザー! そっちだ!」
男の存在に驚いた魚が、元来た方へと大きく迂回して戻って行く。と、同時にシーザーの爪が魚の両脇に深く食い込む。水面が赤く染まり、今度は確実に獲物を仕留めた。
「よし! いいぞ」
ユーリスが叫んだ。
「いい……!」
シーザーも叫ぶ。二人は大きな獲物を何匹も捕まえて満足した。

 それから、彼らは火を起こし、それらを焼いた。驚いたことに、怪物は点火棒を持っていた。何処で手に入れたのかと訊くと、崩れた街の瓦礫の中にあったと言う。他にも怪物は人間の道具を幾つも所有していた。
「なるほどね。おまえは、本当に賢いよ」
焼きたての魚を頬張りながらユーリスが感心する。と、シーザーはそれを否定した。
「シーザー…ない……ミア……くれた……」
「ミア……が……」
ユーリスがうなずく。シーザーは、二匹目の魚の棒を火の中から取るとユーリスに差し出した。
「わたしは、もう十分だ。それは、おまえにやる。おまえの方が身体もでかいのだから、腹が空くだろう?」
男が言うと怪物は素直にうなずいてそれをガツガツと食べ始めた。

「さてと、そろそろ乾いたかな? 服を着るか」
そう言うと、彼はまた、女物の紫の服を頭から被った。傷跡はまだ痛々しい限りに残っていた。が、彼は元気になっていた。骨折した腕も今ではかなり使えるようになっている。しかし、剣を振り回すにはまだ時間が掛かるだろう。が、彼は怪物や砂漠のことをもっと知るために、ここに滞在することも悪くないと思い始めていた。


 更に数日が過ぎ、ユーリスは指の感覚を取り戻すために竪琴の練習も始めた。これにはシーザーが大興奮して喜んだ。
「おまえは、これが好きなのか?」
竪琴を鳴らすユーリスを見つめて怪物が首を振る。
「ああ……」
「何故好きなんだ?」
「いい……音……」
「変わった奴だな。おまえ、前にも何処かで聞いたことがあるのか?」
「……な…い」
「なら、もっといい音を聞かせてやるよ。練習してきれいな音を出せるようになったらな」
男は怪物のためにも自分自身のためにも、竪琴の練習に励むことにした。


 それからまたある日の夕方。彼らは小さな森に来ていた。そこで、ユーリスが素振りの練習をしながら言った。
「うーむ。まだ、手にしっくり来ないな。これでは、人参一本切れぬだろうな」
「じんじん……?」
近くで草や木の根を探っていたシーザーが振り向く。
「ああ。食べ物の一つさ。土の中になる」
「食う……物!」
シーザーが叫んだ。そして、茂った草を刈り、周囲の土を掘り返す。と、そこにきのこが生えていた。それは小さかったが密集しているのでほどほどの量は有りそうだ。
「ほう。きのこか?」
土に触れてみるとそれは湿っていた。砂漠と言えども、水の湧き出ている場所もある。恐らくその水脈がこの当たりの浅い所を通っているのだろう。それにここは、元から砂漠だった訳ではない。十七年前、あの事故が起こる前まではここは都市だった。

「食べられるかな?」
ユーリスが呟く。
「……食う」
怪物が言った。ユーリスはその中の一本を折るとじっと見つめ、匂いを嗅いだ。
「毒があるかもしれぬぞ」
「いい……食う!」
怪物はざくっとそれらを掻き取ると、泥の付いたきのこをまとめて口に入れた。
「おい……」
男が驚いてその顔を見た。が、怪物は平気な顔をしている。ユーリスは再び、きのこを見た。それは白と灰色と茶色とが混じったような複雑な色をしていた。そこに差し込む強烈な光。男は胸を射すような痛みを感じて視線を逸らした。似ていたのだ。子供の頃に見たあの時の雲……。幼い彼の親友とその彼の夢や未来をも呑み込んでしまった、あの恐ろしい爆発の形に……。

「ユ…リ……?」
ばらけた髪が風に靡いて男の頬を撫でた。
「……親友がいたんだ」
その唇が微かに震える。
「ずっと昔……亡くしてしまった親友が……」
遠い記憶を辿るように彼は虚空を見つめた。それから、ゆっくりと話し始めた。
「ここには昔、街があったんだ。科学の進んだ理想の都市が……。そして、そこに彼らは住んでいた。けれど、消えてしまった。研究所と共に……。だが、あれはただの事故じゃない。何故なら、あの後、この街は地図から消された。人々の記憶からも消去しようと政府によって工作された。そして何より、あの爆発が起きる前、彼が逃げろと言ったんだ。詳しい事情はわからない。だが、そのまま留まっていれば、確実に何か悪いことに利用される。だから、逃げろと教えてくれた。そして、わたしはそれを実行した。しかし、彼は……あの爆発に巻き込まれて……!」
苦渋の瞳に感情が溢れた。

「ユーリ……傷…痛い……か?」」
怪物が言った。
「いや……」
男は否定した。が、その表情は傷の痛みを堪えていた時よりずっと辛そうな表情だった。
「だから、わたしは旅をしているのだ。あの時の真実を突き止めるために……。そして、親友の濡れ衣を晴らすために……それに……」
とユーリスは少しだけ躊躇して言った。
「わたしは、愛が欲しい……」
その横顔にフィルターを通したような不鮮明な光が過ぎた。
「愛……?」
怪物が訝しそうに言った。
「そうだ。愛だ。愛なくして世界のすべては成り立たぬ。わたしはそれが欲しいのだ。わたしのすべてを包み込んでくれるやさしい愛が……」
ユーリスは透き通るような白い頬に淡い紅の光を浮かべて告げた。

「ずっと独りぼっちだったんだ」
彼はそこに芽生えた小さな植物を見つめて語った。
「信じた者に裏切られ、両親に捨てられた。夢も友人も何もかも失くした……。だからこそ望むのだ」
彼はその手でそっと草の葉を撫でた。
「出来ることならば……やわらかくてあたたかい女子の胸に抱かれたい……。そして、この唇に愛の接吻を……」
男の瞳は、もはや現実を透過していた。
「せん…ぷん……?」
怪物が問う。
「おまえには理解出来ないかもしれぬが、こう互いの口と口を重ねて……」
彼は身振り手振りで説明した。が、怪物はただ男をじっと見つめた。
「わからぬか……。だが、人間は常に人を恋しがるものなのだ。肌に触れ、抱き締めて温もりを感じ、唇を重ねて愛を確かめ合う……。それだけで幸せになれる。そういう生き物なのだ」

「恋……?」
「ああ……さすれば、少しは慰めになる」
視線はあくまでも幻想の彼方を浮遊していた。
「ユリ…いい……やる……」
突然怪物が彼の口に自分の口を押し当てた。
「な……! よせ……! おまえじゃない……!」
「……せんぷん……シーザー……やる」
怪物は彼が望んだことをした。が、大きな怪物のそれに潰されて彼は呼吸が出来ずにもがいた。
「馬鹿! よせ! 息が……」
強引に腕を突っ張り、解放されて喘いでいる男に怪物が言った。

「うれし…か……?」
「うれしいどころか……苦し……いよ……殺す気か?」
「ユリ……する……言った……」
怪物はまたじっと男を見つめた。
「おまえとじゃない! 女とだ! 全く! 本気で食われるかと思ったぞ」
そう文句を言うユーリスに怪物は言った。
「食う……」
乾いた風が二人の足元で絡まった。
「何?」
真顔になって男は怪物を見た。

「いい……肉……ユリの…食う……」
からからと小石が舞った。
「本気なのか?」
岩山の隙間から吹く風が不気味な音を鳴らす。
「…食う……!」
男はキッと怪物を睨み、剣を構えた。
「ならば、何故わたしを助けた? 初めから食うつもりなら、何故……! こんなことを……」
風が強くなった。
「復讐……」
「復讐……だって?」
怪物の意図を測りかねた。枯れ草が乾いた音を立てている。男は剣を構え直した。切っ先が僅かに震える。が、それは恐怖からではない。それを支えるだけの力がまだ十分になかったのだ。

「……おまえ…強い……苦しむ……見る……人間……苦しむ……もっと……」
「人間が苦しむのをもっと見たいだって? ふざけるな! わたしは、おまえの遊び道具じゃないぞ!」
振りかざした剣は、しかし、呆気なく怪物に押さえられた。
「放せ!」
「治る…ない……まだ……」
剣を取り上げられてユーリスは膝をついた。
「どうしてだ? 何故、おまえは……それ程人間が憎いんだ?」
「人間……壊す!」
「壊す? 人間がおまえに悪いことをしたのか?」
「シーザー……悪い…ない!」
風の声が木霊していた。

「悪い……ないのに……」
枯渇した大地が罅割れて岩の欠片が散っていく……。
「怪物……切る…切る……ユーリも!」
「わたしも……か?」
怪物の心も罅割れていた。冷たい風に混じって吹く熱風が絡んで踊る。シーザーが剣を男の足元に放った。
「所詮……わかり合えぬということか……」
霧のような過去の時間……。その向こうに見えるのは……歪められた真実……。そして、人間の歪んだ欲望の影……。砂漠の亡霊のように立つ二つの影……。その影に静かに時間が降り積もる。

「花……」
怪物が言った。
「ミアの…花……壊す……した……」
「ミアの、花だって……?」
一瞬、何のことだかわからずにいるユーリスに怪物は続けた。
「花……ユーリ……壊す……した」
怪物のたどたどしい言葉でユーリスはようやく思い出した。
「あの時の壺か……?」
泥だらけの壺にささったまま枯れていた植物と、それが砕けた時の怪物の反応……。
「知らなかったんだ……済まぬ。許してくれ」
ユーリスは詫びたが、シーザーは否だと言った。
「許す…ない……! シーザー……おまえ……食う!」
風が小さく渦巻いて周囲をざわつかせる。

「そうか……」
ユーリスは目を伏せた。
「謝って済むことではないと言うのだな? わかった。世の中には、そういうこともあるだろう。わたしは知っている。おまえの怒りはもっともだ。が、この体、ただでくれてやる訳には行かぬ。わたしには、果たさなければならないことがある。たとえ、この肉体が滅び、魂だけになり果てたとしても、やり通さねばならないことがあるんだ。だが、もし、途中でわたしが死ぬようなことがあれば、この体をおまえにくれてやろう。その時、存分に肉を食らえばいい。だが、それまでは、簡単にくれてやる訳には行かぬ。それでも、欲しいか? なら、力ずくで奪うか? 奪えるものならな!」
と言って剣を取ると、怪物に向けた。

そんなユーリスを不敵に見据えて怪物は言った。
「……死ぬ……食う…いのか?」
じっと見つめる怪物。
「ああ。約束する」
長い沈黙……。風に流された砂粒が歪む。が、二人はやがて頷き合い、じっと互いの心を探り合った。
「シーザー……待つ……ユリ……いい…守る」
「守るだって? 笑わせるな。わたしはそれほど柔じゃない」
斜めに剣を構えるユーリスを怪物はしげしげと見た。
「ユリ…いい……おま…え……」
「変わっているとでも言いたいのか?」
不満そうに言う彼を見て、怪物が言った。
「……帰る……」
「帰る? まだ、来たばかりじゃないか」
と不審がるユーリスに怪物は言った。
「……雨…なる……」
「何……?」
空はいつものようにどんよりしていたが、まだ何の予兆もなかった。

「ユーリ……来る」
無理に抱えようとする怪物の手を払い、男は宣言した。
「放せ。もう、おまえの世話にはならぬ。自分の足で歩く」
男は先に立って歩き始めた。怪物なら5分で着く道のりだったが、彼の危うい足では何倍もかかった。そして、とうとう雨が降り出した。が、ユーリスは意地を張った。怪物は後ろからゆっくり付いて来る。
「何故先に行かぬ?」
剣を杖の代わりに突きながらユーリスが言った。
「ユリ……死ぬ…シーザー…見る」
怪物はわざとらしく崩れやすい岩を足で踏み砕いた。そこは断崖になっているのだ。足を滑らせれば本当に命がない。そんな場所だった。
「ふん。勝手にしろ」
危険な急斜面に崩れやすい岩盤が続く。掴むにしても足を乗せるにしても道幅は狭く、掴める物がまるでなかった。加えて獣や怪物がうろつく場所でもある。実際、何度か足を滑らせて冷や汗をかいた。それでも何とか洞窟にたどり着いた。

 ユーリスは疲労でぐったりしていたが、怪物はいつもと同じように作業をした。採って来た草ときのことを塩水で煮ると男に言った。
「ユリ…食う……?」
だが、男は横になったまま答えた。
「いらぬ。少し疲れた。もう寝る」
そう言って彼は背中を向けた。シーザーは構わず自分だけ食事をすると火の向こうで横になった。


 朝。空が白み始めると怪物は起き出して水を汲みに行くために入れ物を持った。と、ふとユーリスが起きていることに気がついて言った。
「ユーリ……目……」
「寝ている間に、いつ、おまえが食いに来るかと思ったら、全然眠れなかったんだ」
赤い目をした彼が真面目に言うので、シーザーは動かない顔の筋肉を引き攣らせた。
「シーザー……約束…破る…な…い……」
「そうか……」
「外……ユーリ……来る……」
「ああ……」
ユーリスが剣を持って立ち上がると、怪物が来て彼を抱えた。
「下ろせ。一人で大丈夫だ」
ユーリスは主張したが、怪物は聞かず、そのまま山の裏側に出た。そして、全く道のない崖を何度か跳躍して下に下りた。

 岩の間を流れる小川に着くと、怪物はようやく彼を解放した。岸辺には少しずつ緑が生えて小さな花がぽつぽつと咲いている。ユーリスは膝を突いてその花に触れた。
「何て可憐で愛らしいのだろう」

――シーザー、見て! ここは素敵ね。花の匂いがする……

「ユリ……花……好き…か?」
怪物が訊く。
「ああ。見ていると心が癒される……」
男の髪に留めてある飾りの銀が微かに光る。怪物は、そっとそれに触れて言った。
「ユーリ……花……」
「これか? これは、わたしの友人がくれた物だ……。彼はわたしに、これを売ってお金に替えるようにと言ったが、わたしにはできなかった。この花飾りと竪琴は、わたしの宝物だ」
「宝…?」
「そう。大好きな人からもらった大切な物……決してなくしたくない……」
「……」
怪物はずっと空を見ていた。

「シーザー……おまえにとっては、あの壺が、ミアが差したあの花が、おまえにとっての宝物だったんだな……それを……」
しかし、彼が詫びる言葉を口にする前に、怪物は持って来た入れ物でユーリスに水を掛けた。
「シーザー……?」
男の全身から水が滴った。
「……いい……水」
そう言うと、怪物は自分も水を掬って身体に掛けた。
「そうだな……」
何を言わんとしているのか察した彼は自分も同じように顔を洗った。

 それから、彼らは小魚を捕まえて火を起こし、それらを焼いて朝食にした。その間にまた、ユーリスは濡れた服を木の枝に掛け、乾かすことにした。
「シーザー……おまえのことも話してくれ。おまえは、何故怪物でありながら人の言葉を話す? 誰かに教わったのか?」
「…わかる…ない」
地平線の向こうは霞んで見えない。悠久の向こうにあるのは幻想の都……。置き去りにされたままの記憶……。その男の火地味に映る影を怪物はじっと見つめた。
「年は幾つだ?」
「知る……ない」
「なら、おまえは何処から来た? 親は何処にいる?」
「……わかる……ない……」
時折、光るせせらぎと淡い花の色が水際に映えて美しかった。

「他の怪物も話すのか?」
「知る……ない」
風が遠い悲しみを拾うように細く響く。鬣が風に靡いて龍のように舞った。
「そうか……」
そんな怪物を見てユーリスが頷いた。結局、何もわからなかった。
「それにしても、不思議だな」
とユーリスが言った。
「おまえは、わたしを食うと言った。なのに、わたしは、武器も持たず、裸でこうしておまえの前にいる。なのに、何故だかとても心落ち着く……火の温もりのせいかな? それとも……怪物であるおまえが、わたしの心を動かしたのかもしれぬ……わたしは……おまえが好きだ。シーザー……。ただ、おまえが……」
そういうと彼は仰向けに寝転んでじっと空を見つめた。怪物は、じっとそんな彼を見て言った。

「……おまえ…食う……」
「構わぬ」
ユーリスは言って目を閉じた。
「どうせ、いつかは死ぬ身なのだ。死んだら、おまえにやる。この肉体も……心も……何もかも……死ねば何もわからなくなるのだから……」
ユーリスは静かに空を見つめた。その頬に細い草の葉が触れる。
「だが、心は一体何処から来たのだろう? そして、何処へ続いて行くのだろう……? 何故悲しくなるのだろう? 何故うれしくなるのだろう? どうして心はうつろいやすい……? 何もわからず、何も知らない。わたしには知る由もない……おまえと同じに……。何故、人間として生まれた者が優れていて、怪物や獣として生まれた者が劣っているなどと言えよう? そんなこと、誰にもわからぬのに……」
ユーリスは目を閉じ、繰り返した。
「誰にも……わからぬのに……」
「ユーリ……」
怪物は、そんな彼と燃える火を、そして、流れる水の陰影をじっといつまでも見つめていた。